洋の東西を問わず、数百年から数千年前に建築され、現代までその存在を留め賛美され続ける素晴らしい建築の多くが、宗教建築が多い事に異論のある人は少ないでしょう。
例えば、古い歴史のある国や街の宗教施設が、実は非常に人気のある観光施設である事はよくある事です。それは訪れる人の宗教を問いません。
ヴァチカン市国にあるカトリックの総本山「サン・ピエトロ大聖堂」の内部。「サン・ピエトロ大聖堂」には年間700万人以上が訪れる。
それらの建築が、現代でもその建築を使う人々にとって重要な意味のある建築だからこそ、大切に扱われ、保存され、メンテナンスされている事がその理由根幹だと思います。
でも、ちょっと疑問に思う事があります。それは、なぜ宗教建築はあのように素晴らしいデザインを実現できているのか?という疑問。
通常、建築は建築家の一存だけで設計出来ません。建築の設計を依頼する発注者=施主がいて初めて設計する事が出来ます。宗教建築の場合はその宗教のトップの人達や、信徒さんや檀家さんなどが施主になります。
建築家が思い描いた建築を実現するには、それを実行させる施主の許可が必要になります。この進め方は今も昔も変わらないはずです。
つまり、建築家にいくら素晴らしいビジョンがあっても、施主側にそれを理解する力がなければ、そこで実現される建築は陳腐なものとなってしまいます。
建築は建築家がつくるのではなく、施主がつくるものなのです。
スペイン/バルセロナのサグラダ・ファミリアは現在も建築中。工事中にも関わらず年間300万人の拝観者が訪れる。
しかし、建築家の思い描いたビジョンが100%理解できる施主ばかりだったとは考えられません。中にはマニア的に建築に造詣が深い施主もいたかもしれませんが、それでも建築家と比べると素人の域を越えなかったはずです。
しかも、実際の設計行為において施主の承諾をもらわなければいけない場面は1つや2つではなく、小さな住宅の設計でも数十から数百、場合によっては数千に及びます。いつもそれら全てがベストな判断とはなるとは限りません。
言い換えると、その判断の積み重ねが建築となります。きっとそこには、建築家と施主との良好な信頼関係が築かれていたからこそ実現したものに違いありません。
そのように考えると、後世にいたっても評価され賛美され続ける素晴らしい宗教建築の数々は、まるで奇跡の積み重ねの結果のように思えてくるのです。