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  • 執筆者の写真S.Ninomiya

設計のスタンスと可能性


先日、某ハウスメーカーの方とお話をした際、僕たちが設計する住まいに対して「絶妙な落としどころ」という感想を頂きました。彼には何回か内覧会に来て頂いているので、それらをご覧になられた感想との事。 もう少し詳しく説明すると、「もっと『攻めた』設計もできるはずなのに、無理の無い設計をしていて、でも決して凡庸な住まいにはならず、建築家が設計した住まいになっている。その取捨選択の仕方が『落としどころが絶妙』」という事らしいです。 僕たちが設計する時に最も重要視しているのは「いったい誰の為のモノか?」という事。当たり前すぎる前提なのですが、僕たちが設計する住まいは僕たちのものではない。当然、僕たちが住まうわけではない。設計を依頼して下さったお施主さんのものであり、お施主さんが住まわれるもの。決して建築家のエゴを通して造るものではないと考えています。 だけど、確かに「作品」という側面もある。なぜなら、「作品」性の無い住まいで良いのであれば建築家に設計を依頼する必要は無いと思っているから。お施主さん自身が意識しているか否かは様々なケースがあるでしょうが、少なくとも潜在意識の中では「作品」を求めているから、無意識であれ建築家に設計を依頼するのだろうと思っているからです。 ただ「作品」性に拘るあまり、誰の為の建築か?という大前提を見失ってはいけない。建築家のエゴを表現する為だけの建築であってはいけないと思います。 例えば、建築家がエゴを優先させた建築ばかり造っていると、業界での評価は得られるかもしれませんが、客観性をもった社会の視点から見ると、それは非常に狭い世界での評価に過ぎない。ましてや「攻め」過ぎると、得てしてメリットと背中合わせのデメリットも誇張されてしまい、結果的に「建築家」の評価を下げてしまう事にも繋がる。「攻め」過ぎたあまり訴訟問題(=お施主さんにご魅惑をおかけする)に至る事例を散見するのも、このエゴの表現としての「攻め」が原因。 しかし、繰り返しになりますが「作品」性も重要。このバランス感覚が非常に難しいところ。その結果が「絶妙な落としどころ」という印象に繋がっているのだと思います。 このように考えているので、僕たちは可能な限りお施主さんの要望を取り入れるスタンスで設計していますが、時には驚くような要望もあったりします。でも、やってみると予想外に良かったりする事もあります(勿論、その逆も...)。そういう時は、人間は無意識の内に先入観に支配されているとつくづく感じると同時に、可能性を感じる時でもあります。

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