建築の専門誌を買わなくなってもう何年も経つ。いわゆる建築家や学生向けの専門誌だ。なぜなら、そこで掲載されている「作品」が参考にならないからだ。だから買わない。でも、アート作品としては面白いので、たまに立ち読みはする…というスタンス。
ではなぜ参考にならないのか?
施主の方を向いていないからだ。
建築家や学生向けの専門誌なので、施主=一般の人に向けられて出版されているわけではない。編集方針も同様。だから、この姿勢が間違えているとは思っていない。
しかし、問題点も多々ある。
例えば、建築家や学生向けを意識するあまり、建築家や学生が興味を持ちそうな得意な特徴を持った建築「作品」がもてはやされるわけだ当然、施主不在の建築「作品」が掲載される傾向が強くなる。
施主不在で設計された建築物は、施主にとって問題のある建築「作品」となり易い。なぜなら、建築家視点の独りよがりの思考による設計に陥りやすいからだ。施主という社会の視点が希薄になり、建築家が暴走してしまうのだ。
また、専門誌に掲載されたという事実が免罪符となり、素晴らしい建築「作品」であり、それを設計した建築家は素晴らしい建築家だ…という評価に繋がるという流れが成立している為、その社会性の無さは見過ごされる傾向があるのも事実だ。
そのような建築家に倫理的な問題点がある事を問うと、殆どの建築家から「施主との共犯関係にあるから大丈夫」という回答が返ってくる。つまり「施主に説明している」「施主もそれを望んだ」という回答。
でも、果たして本当に「共犯関係」は成立しているのだろうか?
もし、「共犯関係」が成立していたとしても、そこに「誤解」や「裏切り」は生じないのか?
もし、完全に「共犯関係」が成立しているのであれば、なぜ世界的にも名を知られ、数々の受賞歴もあり、数々の専門誌にも掲載されている「アノ」建築家は施主に訴訟ばかり起こされているのか。。。。。
「共犯関係」が崩れたのか、はたまた最初から「共犯関係」などなく単独犯ではなかったのか。。。。
クエンティン・タランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」(1992年)の一場面。
クエンティン・タランティーノ監督の出世作、映画「レザボア・ドッグス」を思い出す。お互いの素性をしらない6人が共犯関係を結び宝石強盗を行うのだが、共犯関係が崩れ殺しあうというストーリーだ。
「共犯関係」というのは上手い言い方だと思う。確かに、施主と共同でつくる建築は「共犯関係」無しでは成り立たない。しかし暴走は良くない。施主の方を向いた「共犯関係」を築いていきたいと思う。