まずは近況のご報告から。
過日は先日竣工した「芦屋の家3」の竣工写真の再撮影を行いました。カメラマンはいつも僕たちの建築を撮影して頂いている冨田英次さん。
「芦屋の家3」の竣工写真はお引渡し前に1度撮影に入っているのですが、その時はまだ家具が入っていなかったので今回の再撮影となりました。
やはり、家具が無い空間よりも家具が入った方が空間が生き生きとしますね。
完成した写真が届くのが楽しみです。写真が届き次第、このウェブサイトでもご紹介させて頂きます。
「芦屋の家3」竣工写真撮影の様子。
では本題。
なぜこのようなタイトルでBLOGを書いたかというと、機能や性能がそぎ落とされた建築の方が評価が高いという傾向に疑問を感じるから。
例えば、屋根と壁と僅かな開口部だけがあって、その開口部から差し込む外光が内部の薄暗さとの強烈なコントラストを生じさせ、自然の持つ根源的な美を捉えていて素晴らしい…といった論調のもの。
確かにその状況は美しいかもしれないし、ハッと心を奪われる情景かもしれません。しかし、それは果たして建築と言えるでしょうか?
建築…特に住宅の場合、当然のようにあらゆる機能や性能を求められます。
雨風を凌ぐ事は当然だし、断熱性能や防火性能、住まう人の生活パターンを考慮した生活導線、エネルギーの消費効率やランニングコスト、はたまた耐久性や掃除のし易さ等々…それらを網羅した上で総合的にデザインし、便利で多機能で心地よい空間となる事を求められます。それが住宅でありそれが建築。
しかし、機能や性能が多くなればなるほど要素が増えるのは当然で、要素が増えるほど焦点もぼけ、人に与えるビジュアル的イメージも散漫になり易いものです。
最初に挙げた機能や性能がそぎ落とされた評価の高い建築の中には、照明もなければ空調もなく、トイレなどの水廻りもなかったりするものも多くあります。究極の単機能。しかし、それは建築と言えるのでしょうか?もはやそれは、彫刻のように機能や性能を持たず、ただただ人間の感性に感銘を与える事に特化されたオブジェなのではないでしょうか?
そんな単機能のオブジェと、様々な機能や性能の塊である建築を同じ土俵で評価する事は実に不自然だし無理がある…と思うし、オブジェを作る事が僕たち建築家の仕事ではないと思うのです。
話しを最初に戻すと、家具の入った状態で「芦屋の家3」の再撮影を行いました。それは、家具の有る無しでその空間の使われ方に明確な差が生じ、単なるオブジェ的な空間ではなく、機能のある空間…つまり建築として定義づけられた状態でもあるのです。
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